十一月の酉の日の午前零時に打ち鳴らされる「一番太鼓」を合図に始まり、終日お祭りが執り行われます。十一月に酉の日が二回ある時は二の酉、三回は三の酉と言われます。
以前は酉の祭(とりのまち)と呼ばれていましたが、次第に市の字があてられてきました。祭に市が立ったのです。

酉の市(酉の祭)は、御神恩に感謝して来る年の開運、授福、殖産、除災、商売繁盛をお祈りするお祭りです。
天保9年(1838)に江戸で刊行された「東都歳時記」には、

 

酉の日・酉の祭、下谷田甫鷲大明神社当社への賑へることは、今天保壬辰
(1832)より凡そ六十年余年以前よりの事

 

とあり、宝暦・明和年間(1750~1760)にはすでに酉の祭は相当な賑わいで、それ以前から年中行事として行われていたことが解ります。

樋口一葉の「たけくらべ」に

 

『此年三の酉まで有りて中一日は津ぶれしか土前後の上天気に鷲神社の賑わひすさまじく、此処をかこつけに検査場の門より入り乱れ入る若人達の勢ひとては天柱くだけ地維かくるかと思はるる笑ひ声のどよめき・・・・』

 

とあるのをはじめ、文学作品に表された酉の市も多く、広津柳浪「今戸心中」、久保田万太郎「三の酉」、沢村貞子「私の浅草」、等々枚挙のいとまがありません。冬の季語になる俳句も

 

人並に押されてくるや酉の市 虚子
一葉忌ある年酉にあたりけり 万太郎
雑閙や熊手押あふ酉の市 子規

 

など秀句が多くあります。

三の酉の年は火事が多いといわれますが、これは地方などに宵に鳴かぬ鶏が鳴くと「火事が出る」といわれたことから出た俗信です。鶏は神の使いであるとされ「時」を知るために飼われました。三の酉の頃になると次第に寒さを増し、火を使う機会も増えることから火に対する戒め、慎みからいわれたのでしょう。

古くより続く鷲神社の例祭は大正十二年の関東大震災の年も、戦時中や終戦の年も挙行され、たくさんの人々を集めました。一度として執行されなかった年はありません。